悔しさをバネに
大学を卒業したあと、大学助手(今でいう助教)として勤務したことがある。できることならそのまま研究者としての道を歩みたかった。しかし、フォン・ノイマン(数学者)とモルゲンシュテルン(経済学者)の『ゲームの理論と経済行動』(1944年)の原書を読み始め、自分は研究者には向いていないことを思い知らされた。さっぱり理解できず叩きのめされたのである。このままこの世界にしがみついていても一流にはなれない。結局、8年間勤務した後、大学を辞めた。
しかし、いまから思えば、あのころ味わった悔しさが私の人生のバネになったように思う。恩師の平館道子先生からは「人間にはできることとできないことがあります」という言葉を頂いた。また、財政学の山村先生からは「普段は60%くらいの力で仕事をして、いざという時に100%の力を発揮できることが大切だ」といわれた。山村先生は元大蔵省の官僚をしておられたから、予算編成期の体験からそうしたことを言われたのかもしれない。
一度、山村先生の自宅に遊びに行ったことがある。豪華なマンションで、廊下の突き当りの角部屋にあった。吉永小百合が金沢を訪れると、きまって「叔父様」といって遊びに来ると聞いたことがある。しょせん、我々とは住む世界が違うのだ。そして、その時に見た「廊下の突き当りにある角部屋のマンション」は私の脳裏にはっきり刻み込まれた。「いいなあ」。
また、西洋経済史の進藤先生は、借家をお持ちであった。毎月、家賃が入るから、「これで老後は左うちわですね」と若い先生方からは羨ましがられていた。
一方、金融論の藤沢先生の自宅に招待され、奥様手製の夕食をごちそうになったことがある。その時、先生の書斎を見せていただいて驚いた。なんと、天井まで届く作り付けの本棚があり、専門書がびっしり並んでいたのである。いつか自分もこんな書斎が持てたらいいなあ、と強く印象に残った。
趣味の世界でも大学の先生方からは様々な薫陶を受けた。国際経済論の柴田先生は囲碁が強かった。聞けば4段だという。当時の私は初段くらいだったから、3子おいてもなかなか勝てなかった。ちなみに、文学部の松本先生は5段で、4子おいてもよく負かされた。自分もいつかはあんな風に強くなれるといいなあ、と思ったものだ。
大学を去った後、民間のシンクタンクを経て、高校教員になり、ようやく自分に合った職業を見つけることができた。あれから35年。67歳を迎えた今、あらためて自分の生活を振り返ってみると、かつて手の届かなかった「夢」が全部現実のものとなっている。
「廊下の突き当りにある角部屋マンション」「賃貸用マンション」「天井まで届く作り付けの本棚」「囲碁の免状」。
田舎の次男坊として裸一貫で大阪に出てきて、よくぞまあ、ここまでたどり着けたという思いがする。その一方で、仕事中心の生活をしてきたから、家族にはずいぶん寂しい思いをさせてきただろうとも思う。
「なにごとのおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」(西行法師)。
My life is big success!!
残された人生、自分だけの幸せではなく、なるべく多くの人が幸せだと感じられる社会を作るため微力を尽くしたい。もうひと仕事やらねばならぬことがある。
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